「賢い」を定義するのは意外と難しい。
人は、何を持って「賢い」と判断するんだろう。
「賢さ」ってなんだ?
「勉強ができる」のと「賢い」は違う。
「知識」と「知恵」は違う。
それはよく言われていることなんだけど。
わたしは「賢い」人が好きである。
その「賢い」は学歴を指しているのではない。
言動が「賢い」こと。
行動が「賢い」こと。
それはある意味、「人間力」である。
賢い人は、人としての魅力を持っている。
ある投稿に波動の高い人についての描写があった。
波動が高い人というのは、例えば「穏やかで全く怒らない人」といった極端なものではなく、両面を持っているけれどバランスが取れた人である、とあり、なんだか納得した。
両面を知らなければ「賢い」にはなれない気がする。
「失敗」を経験しなければ「成功」もないのと同じことじゃないだろうか。
「賢い」姿とは、完璧な線で描かれる姿ではなく、両面を認めた上でバランスを取ることができる、表面はでこぼこだけども遠くから見ると球体に見える、そんな姿なんだと思う。
遠くから見る。
それは、「右肩上がり」という表現にも当てはまると、最近気付いた。
右肩上がりは必ずしも直線である必要はない。
何も順調に上がり続けることだけが右肩上がりではない。
波打っていても、遠くから見ると全体的には右に上がっている。それがむしろ自然な、人間らしい姿なんじゃないかと、ふと思った。
浮き沈みがあると、自分が向上しているのかわからなくなってしまう。
上昇したはずなのに、また沈んでしまった。
これじゃダメだ、向上できてない。
そんな風に感じたら、「引き」で自分を見てみよう。
その波打つ線は、きっと、右肩上がりである。
それを考えていたとき、ふと思い出した。
ダイエットについて、同じようなことが何かに書かれていた。
体重の減少は直線ではない。
順調にまっすぐ下降していく訳ではなく、減ってもまた少し増えたりして、蛇行しながら下降していく。
だから少し増えたときも失望してやめたりしないで、といったものだったと思う。
波打つ自分を認める。
両面ある自分を認める。
結局、「賢さ」の最終的なイメージはやっぱり「泥の中に咲く蓮の花」なのかもしれない。