枠がない

いろんな意味で。
枠がない。


わたしが人に対して持つ判断基準は、器の大きさというか、幅の広さというか、そういうものを無意識に測っていて、それこそ、「枠を持たない」人に共感する。
どんな役職についているかとか、「肩書き」は関係ない。
そのポジションで、それ?と思うことはあるけど。
肩書きに比例してないよね・・・?という。


逆にいうと、本当に器の大きい人は肩書きを振りかざさないので、偉そうにしている人は、みんなニセモノです。


本物には、枠がない。


8月に終えた仕事の退社手続きとやらに行ってきた。
いくつかの書類に署名捺印し、会社とはそういうものと実感した。
この人はわかっているだろうからとか個別に判断することはなく、一律に、同じ対応をする。
枠の中。


見えない枠をずっと感じていた。
同じ対応をすることが必要な組織の中でも、少し個別を許されていたところはあったけど、それでも「講師」という枠の中にあった。
ちょっと特別な講師。
でもやっぱり枠の中。


肩書きで人を判断しないので、社長であれ誰であれ、その人の本質で判断する。
面白い人ではあったけど、なかなか見たことのない稀な人ではあったけど。
最後の会話があまりにも普通で、なんだか小さく見えた。
発している言葉は「これからの人生を応援しています」であっても、素通りしてしまうくらい、パワーもなかった。


夜になって、お風呂の中で考えていて、気づいた。
そこにわたしの枠はないんだ。


待遇が全てじゃないけど、一つの基準ではある。
自分の価値基準の一つ。
どれだけ成果を出していても、その評価が反映されないこと。
それはつまり、その会社にそれだけの器がないということだ。
判断基準もなければ、それを反映させるシステムもない。


わたしの入るべき枠を持っていない、ということ。
自由に広がる意思を持った人を抱えるような、枠がない。
どこまでも上を目指していこうとする人に対する、枠がない。
いつの間にか自分がoutgrownしたような気分だった。


わたしは「枠がない」生き方を選んだ。
もう枠には入れない。
自分の可能性を狭めるような生き方はしない。


枠は必要ない。
そもそも、そんなものはないのだ。