流れていく日々の中で

rock_azure2015-11-17

毎日、いろんなことを思い、考える。
それを発信できる日もあれば、できない日もある。
私に関しては、発信できる日よりも、発信できない日が圧倒的に多い。
落ち着いて書く時間が取れなかったり、考えがまとまってなかったりして書けない。
そして日々は、目まぐるしく変わっていく。


昨日と今日では、感じることも考えも変わっていることもある。
その瞬間は、流れていく。


最終的には、現時点での結論が残る。
でも、過程を忘れ去っている訳ではない。
今までに感じ、考えたことを全て集約した上での結論が残る。


日々細胞は生まれ変わっても骨格は変わらないように、核心は変わらない。
何を受け取り、何を残して、自分を維持するのか。
日々は取捨選択である。


どんなに世界のどこかが荒れていようと、私は平和を選ぶ。
どんな規模であろうと、武力を使うことは、子供が「口で勝てないから手を出す」のと、何も変わらない。
それは賢い人のすることではない。
まともな大人なら、「暴力では何も解決しない」と諭すはずだ。
それがなぜ国家なら許されるのか。


子供の頃は、教育を受ければ理路整然と物事を考えられるんだと思っていた。でも大人を見ながら、なぜそうじゃない人がいるんだろうと思っていた。
だんだんと社会の実態がわかるにつれ、理路整然と物事を考える人は一部であることがわかった。
自分で考える軸を持った人も、何かを追求する人も、一部なんだと。


何かを発信するのは、現時点での自分の意見をまとめるということだが、日々物事が絶えず動いているからこそ、何かをまとめるということは意外に難しいことだと思う。
それを日々やっている人がいる。
そういう人たちは多分、試行錯誤を重ねて訓練し、日々磨いているんだと思う。


人の成長を考えるとき、私は樹をイメージする。
太陽に照らされ、風に吹かれ、雨を受けながら、根を張り、幹を広げ、成長する。
コアな部分をどれだけ広げられるか。
私のお手本はいつも、この地球に人類よりも遥か昔に生まれ、現在も地球を支え続ける、植物だ。
長老のような大木を見ると、敬意と憧れを抱く。
そして、私を樹に例えたら、いったい今どのくらいの大きさなんだろうと、考える。


樹には年輪が刻まれる。
人には何が刻まれるんだろう。
コアのしっかりした大木になりたい。
日々、光を、風を、雨を受けながら、しなやかに伸びる大木になりたい。