日常

少しずつ日常に戻りつつある、というか・・・・
父のいない日常に戻った、というか・・・・
正直なところ、どう表現したらいいのか分からない感じです。


どんどん遠くなっていく父をずっと見ていたので、いなくなることは解っていて、心の準備もしてきていたので、「そのときが来たんだな」という感覚が強いというか。

「寂しい」とか「悲しい」といった感情はあまり残っていなくて。
看病している時から葬儀までのしばらくの間たくさん泣いたから、もう泣きたくないというか。
変な話、葬儀が終わって骨になった時に何かが離れていったというか、ピリオドを打った気がした。

でもその割には、まだ父がいるような感じもするし、祭壇の写真に向かって話しかけたり(大概は腑に落ちないことなどを「お父さん、どう思う?」と同意を求めてたりして)。
いないといえばいないような、でもその辺にいるような・・・・


思うんだけど、存在っていうのは、目の前にいるかどうかだけではないんじゃないかな?
例えば、遠くにいる友人。
離れていても、心では繋がっている存在。
それから、私にとっては大きい、音楽という存在。
聴いたり歌ったりしているうちに、心が解放されていく。
でも、音自体は見えない。


結局、大事なのは心なんじゃないかな。
心の中にあるもの。


そうは言っても、若干思考停止したりするので、まだどこかで気は張っているのかもしれませんねー。
そういう時は、寝ることにしています^^


さて。

お見舞いとかお供えとかでバナナがたくさんありすぎて、またまたOver-ripeになったので、ケーキを焼いた。といっても、5日ほど前の写真。
今回は型にひたひた満杯に入ったので、爆発しないかとヒヤヒヤしながら焼けるのを見ていた。思ったより出てこなくて、よかった^^
まだお供えの真っ黒になったバナナがあるので、今日もこれから焼く予定です^^


こちらもお供えの花かごから。

しおれかけたり枯れたりしているのを整理してたんだけど、このトルコキキョウがやけに美しいので捨てられず・・・・。花瓶に挿していたら首が下がって下を向くので、短くしてコップに入れた。
まだ健在です。
白と紫の加減がとてもきれい。


これを書きながらラムレーズンのアイスを食べていたんだけど、そのパッケージも白と紫と黒。
この組み合わせ、好きだなぁ^^


なんか、もっと書くことあったと思うんだけど、ちょっともう出てこないので、この辺で。
今日も比較的天気が良さそうなので、庭弄りをしようと思っています・・・・


追伸:
同級生が亡くなったという連絡が友達からありました。
少し前に闘病中でもう末期だということを聞いていたのですが。
生きているときに会いたかったな。
それこそ、中学校以来会っていなかったけど。
なんだか他人事に思えなくて。
とりあえずお通夜に行こうと思います。告別式は人が多くて話も出来ないのであまり・・・・なので。
まぁ、かといって話すこともないかもしれませんが。


生きているうち、だと私は思います。
お葬式に行ったって、本人にはもうわからない。
出来ることをしてあげるのも、気持ちを伝えるのも、生きているうちにやらなきゃ、と思う。


それから思い出したけど、父の葬儀をして思ったけど、私は大掛かりなものはしたくないな、ということ。
なんというか、ビジネスになっているし、要らない物やダブっている物があっても平気でセットに組み込まれているし、あまり家族の気持ちには沿ってないよな・・・・という感じがあって。
なんかもっとシンプルにならないのかな?と思う。
自分の時は・・・・と考えていて、今から遺書を書いておかなきゃ、と思ったのでした。実印も作ったし^^


「死に様は生き様だ」と思う。
その人がどのように生きたかは、最期に表れると思うし、最期をどのように迎えるかを考えることで、どのように生きるかが見えてくるんじゃないかな。


死はいつか来る。それを避けていては、ちゃんと生きられない。


「南に死にそうな人がいたら、行って心配することはないと言い・・・・」でしたっけ?
なんというか、その手を握っていてあげるとか。
死にそうな人から目を背けるのは違うんじゃないかと、私は思う。


私は死んだら宇宙に還ると思っているから、死は怖くない。
解放されるというか。世の中の様々なもの、邪念とか欲とか苦しみとか悲しみとか、そういうものから離れられるということ。無になること。
精一杯生きれば、思いが残ることはない。


生きている限り、修行の日々。
でもそんな修行の中で、苦しみや悲しみの中で得られたものが、その人の財産になっていくんじゃないかな。
だから私は一緒に修行をした父に感謝しています。


なんだか文章が散らかっていますが・・・・^^
そんな感じの午後です。