時間の価値と埋め合わせ

時間は流れている。
今という時間は、今しかない。
過ぎたものは、変えられない。


キャンセルした個人授業を振り替えるということ。
それは、その日に行う予定だった内容に対する「埋め合わせ」ではあっても、時間としては、「埋め合わせ」ではない。
過ぎた時間を「埋める」ことはできないから、別の時間を更に「埋める」、つまり、時間は2倍かかっている。
枠を2つ使って1つの目的を達成した、ということである。


なのに、その時間に対する認識は、かなり薄いように思う。
プラスアルファの時間を使って補っているのに、その時間をがんばって確保しているのに、しかも場合によっては軽く扱われたかもしれない過去の時間のために、働いているのに。
これがお金だったら、1回払った分をキャンセルしてまた払うなんてことはしないだろうに。
時間というものは、減っている感覚がないから、費やしている感覚も、奪っている感覚もないから、安易に軽く扱ってしまう。


「貴重な時間を…」という認識。
時間の価値は、見えにくい。
それは「埋め合わせ」なんてできない、取り替えも代用もできない、大切なもの。
それを粗末に扱われると、なんだか悲しいような、悔しいような、気分になる。