その手に信念を握って

書きたいことがたくさんある。
わたしには本当に波があって、書くことが何も出てこない日もあれば、書きたいことがわんさか出てくる日もあって、でもわんさかありすぎる日はそれはそれで書けなくなる。
手がつけられなくなるというか、収拾がつかなくなるというか。


でも、書くことが出てこない日も、それは何もなかったからじゃなくて、考えていることや感じていることは常にあるんだけど、ある意味「まとまった形」にならないだけで、いろんなことが渦巻いている状態で、それがある一定に達すると、わーーーーーっと溢れ出てきて、急に形を成して押し寄せてくるような感じだ。
だからもう、今日のページはものすごく長くなるかもしれないけど、すべてを入れてみようと思う。


朝、なんとなくネットの記事をスクロールしていたら、「せやろがいおじさん」のYouTubeについて書かれてあって、「死んだら負け」についても動画を挙げていると読み、そこから見に行った。
なんか、最終的には涙が出てきた。
わたしの感じた違和感を、こんなにも的確にユーモアも交えて形にするとは。
新潮45の記事についても、渋谷のハロウィンについても。
少し前、初めて見たのはオリンピックのボランティアについての動画だったけど、その時も感心したけど、今回はチャンネル登録しちゃった。

そうやって発信して、誰かに伝えるということ。
大事なことだと思う。


もう一つ、「謝罪」について。
国家間だとか外交問題だとかなんとか、いろんな背景があるのかもしれないけど、どんな問題であれ、誰かを傷つけたのであれば謝罪しない理由はないと思う。
それは最終的には人間としての問題であり、国籍云々以前の問題だと思う。


「戦争責任」と言ったときに、謝罪すべきは誰なんだろうと考えてみた。
言い出した人なのか、賛同した人なのか、反対しなかった人なのか。
そう考えていくと、明確に「誰」という判断はしづらいように思う。
だから結果として、「誰も謝罪しない」ということになる。


だけど誰かを傷つけ、苦しめたのであれば、それを認めて謝ることが必要だ。
それは国家間だけの問題じゃない。
先日知覧に行ったという知人の話を聞いた。
戦争で傷つけたのは、相手だけではない。
自国民だって、傷つけている。
どれだけの若者が死ぬために飛び立っていったのか。
国のために自爆するって、何?


だから、みんなに謝罪すべきだ。
攻め入った国の人々にも、戦いに巻き込んだ兵士にも、地上戦になった沖縄の人々にも、空襲や原爆で被害にあった人々にも。

もし誰も謝ってないなら、わたしが謝ろう。
あのときの日本は間違っていました、多くの人々を傷つけました、本当にごめんなさい、と、日本人として謝罪するのは何もおかしくないんじゃないか。

そのようなことが二度と起こらないように努力します、と、過去から学び、進んでいくしかないんじゃないのか。


一つ興味深かったこと。
「原爆投下は戦争を終わらせるために仕方なかった」と考える人の率。
その記事に書かれてあったのはアメリカ、日本、韓国、ドイツの4カ国だけだったんだけど。
ドイツは日本の7%よりも低い4%だった。
日本よりもドイツの方が低いとは。
それで思い出したのは、ドイツの教育。
ナチスドイツの過ちを徹底的に教えていると聞いたことがある。
二度と繰り返したくない黒歴史に、ちゃんと向き合う。
原発だって、廃止にした国だ。
日本より徹底している。


それで思い出したけど、ベルリンの壁の崩壊って、当時はなんだかよくわからないけど衝撃的だった、くらいのイメージだったけど、少し前に生徒と「ドイツは昔は西と東に分かれてて、それがベルリンの壁が崩壊して統一に向かって・・・」と話していて、それまでには考えてもみなかったことが、誰かの発想の転換で「そんな壁は壊しちゃえ」になって、あっという間にみんなに広がって、最終的には統一に向かった、って、改めてすごいなと思った。
もちろん、水面下での動きがあってのことだけど。
意識の高まりの結果ではあるけれど。
それでも、何かを動かすという人々のエネルギーを感じて、心が揺さぶられる。


話が逸れたけど。
結局、人々の向き合う気持ちと思いの深さが歴史を変えていくんだろうと思う。
諦めるのではなく。
ただ流されるのでもなく。
ハンマーで壁を叩き続ければ、世界は変えられる。
なんだかショーシャンクを思い出した。
壁を削り続けて脱出する。


その手に握っているのは、信念だ。