現象の裏側

少し前の記事に載せていたこと。
昨日、父と話していて、
「トモコがおらんかったら死んどる」と言うのでアハハと笑っていると、
「死のうと思ったけど出来なんだ」と涙ぐんでいた。
遺書も書いたと言うので、いつごろ?と聞くと、母の命日あたりだったと言う。


そう、あのときだ、と思った。


詳しい日にちは覚えていなかったから、この日記でさっき確認した。
ベッドの脇から包丁を返してもらったとき。


包丁がなくなったことに気づいたとき、私の頭をよぎったのはそのことだった。
あのときは書かなかったけど。
もしかして、と思ってぞっとした。
だから見つけなきゃいけない気がした。
「仏壇のりんごを食べようとした」と言われてもいまいち腑に落ちなかったけど、それ以上は追求する気になれなかった。


だんだん動けなくなって、がんばって乗っていた車を手放した。
そのとき、「あぁ、遂にあきらめたんだな」と思った。
確か、その後だったと思う。


「生きていても迷惑をかけるだけだから」


そんな気持ちになることを、私は責められない。
毎日痛みに耐えなければならず、動けず、トイレもままならず・・・・・


ときどきニュースで介護で行き詰まって親を・・・・というのを聞く。私はその人を肯定するわけでもないけど、責める気持ちはない。
さっきNHK児童虐待についてやっていたけど、何かつながっているというか、社会全体のことだと思う。
決して他人事ではない。当事者が集まって社会は構成されている。一人ひとりが助け合う、つまり助けたり助けられたりしながら生活している、その意識が必要。
最近になって思うのは、「助けてもらう」ことに対して抵抗感や罪悪感が強い傾向があること。「困った時はお互いさま」という言葉があるけれど、最近はあまり機能していないのではないかと思う。自立とか自己責任とかいう言葉のほうが強くて。


そのNHKの番組ではニルスの国スウェーデンの子育てが紹介されていた。
30年で変わったと言う。


変わろうと思った人が、変われる。
「当たり前」なんてことは、ないのです。