沈黙の向こう側

しばらく更新してませんでした。
その間のわたしはどうだったかということを少し書いておくと、単純に疲弊してました。
何にって、情報に。
受信すること、発信すること。
全てが嫌になっていました。


誰もが情報を発信するようになったこの世の中。
何も発信していない自分は存在すら認めてもらえないような気がして。
やることやってない人は落ちこぼれるよ、みたいな強迫観念。
でもやりたくない、言いたくない、しゃべりたくないんです今は、という気持ちが強かった。
ここに書くことなんて、大した発信でもないんだけど。
でも何も言いたくなかった。
パソコンさえ開けてない。
自分独りで何かを遮断しているような、何かに反抗しているような、変な感じ。
沈黙という名の抗議活動を、独りでやっていた。


それでどうなった、というと、特に結論はないんだけど、自分は何を発信したいのかということをずっと考えていて、それが必要だったのかもしれない。
日々流れてくるニュースに対する自分の考えとか、何か見て思ったことだとか、押し寄せてくる何かにどうアウトプットしていくべきなのかがわからない。
わからないまま発信できない。


みんなが「ワーーーーーっ」と一斉に喋っている中に独り黙っている人がいても、大概の人は気にしないと思う。
この人は話してないけど大丈夫かな、何か言いたいことがあるのではないかな、なんて思う人は少ないのかもしれない。
でもわたしはそういう人だと思う。
「言ったもの勝ち」とは思わない。
声の大きい人の言うことが通る、なんていうのは嫌だ。
話好きな人もそうじゃない人も、同じように尊重されるべきだ。


自分らしく発信したい。
それは、数をたくさんこなしているほうがいいとか、毎日欠かさずしなければいけないとか、そういうことに縛られることなく、自分のやりたいようにやるということだ。


全てが最新・最先端じゃなくてもいい。
古くてもずっと愛されるアンティークや昔の曲のように、あえて切り捨てなくてもいいものもあると思う。
今使っているMacBookも古い型だけど見た目が大好きだから、中身をアップデートして使えるならずっと使いたい。
その気持ちを守り続けようとするわたしって一体何なんだろう、と思うけど、発信せずに沈黙していた期間に見ていたオラクルカード系の動画によく出てきたのが「直感を信じていいよ」というメッセージ。
自分にしかわからない直感。
「これだ」と思ったことは、正しい。


その確信が自分のものになるまでは、とことん向き合う。
それは黙っているように見えて、自分の内側ではものすごい対話をしているということなんだと思う。


ちゃんと自分と対話した上での結論であれば、間違いないと思う。
それをどこで誰に向けて発信するかは、自分の感覚で選べばいい。
ただ出せばいいってものじゃない。
そういう意味で、場所や手段が確定するまで「待つ」ということも大事。


多くのものが瞬時に手に入る世の中であっても。
スピードだけが全てではない。