例によって

何か書こうと思ってこの画面を開くたびに、頭の中が真っ白になって何を書けばいいのやら分からなくなります。
震災から1年ということで、何か書こうと思っていたのですが、どう表せばいいのか・・・・と迷っているうちに2日ほど経ってしまいました。
幸いにも、わたしはあの時、ここ愛媛にいたために、揺れも感じず、ただテレビで惨事を見たに過ぎない。だから起こったことに対する実感が薄い。
あの時どこに居たかで、たとえ同じ日本人であっても、差があると思う。
天災はどこで発生するか分からない。明日はわが身。
それでも、何かを「乗り越える」ということに関しては、人それぞれの難関があり、種類は違っても人生においては同じだと思う。
問題は、それぞれ違う難関について、想像して共感して励まし合えるかどうかだと思う。
正直、被害にあった人たちに対して、自分が何が出来るのか、ということが、今は分からない。募金以外、これと言って何もしていない。
でも例えば原発についてとか、エネルギー問題とか、生活の中で無駄をなくすこととか、自分に出来ることはなんだろう?ということは、常に考えていると思う。
それは、震災があったから、ではなくて、「常に」考えていることであって、特別なことではない。さらに意識するということはあっても。
忘れ去らずに考え続けること、そして、積極的に前を向いて進んでいくこと。それが大事だと思う。
わたしは、そういうことが得意なように思う。
「想い続ける」ということ。


もう1つ。
今回の震災で亡くなった人・行方が分からなくなった人は1万9千人。
年間の自殺者は3万人。
あんなにひどい津波の犠牲者より、自ら命を絶つ人のほうが多い。
結局、天災の被害より、人災の被害のほうが大きいということ。
そして地球のどこかでは、未だに戦争が起こっている。


今まで人類が経験してきたことを、全て体感することが出来たら、人は同じ過ちを繰り返さないと思う。
歴史は繰り返す、ということの原因は、人が代わってしまうからだと思う。
映像で残す技術が産まれたことは、そういう部分で役に立っているかもしれない。
でもわたしは、そこからもう一歩進んで、その場にいた個人の感覚や感情を再現できるような装置があって、悲しみや痛みや辛さや希望を体感することが出来たら、もっと世界は変わるように思う。
もちろん、現在の技術である「映画やお芝居」といった形で再現を試みているんだけど。


悲しみや苦しみは、その中で希望を見つけて乗り越えるためにあると思う。
どん底に落ちた穴の中で、一筋の光を見つけること。
そしてその光を目指して、穴から脱出すること。
それを繰り返して心を鍛えるために人生はあるんじゃないかと、わたしは思う。


震災後の横断幕の「がんばろう日本」は、あんまり好きじゃないんだけど、「立ち上がれ日本」というのがあって、どっちかというとそれだなー、と思った。
倒れても倒れても。立ち上がる、ということ。