糾弾する世の中

「ジャッジ」する「不寛容」な世の中。
まぁ、もしかしたら、そんなことを喚いているのは一部で、大多数は見過ごしているのかもしれませんが。
ただ、メディアなんかでワーワー言うのはやめてほしい。
わかりやすくするために実名を出すけど、佐藤琢磨が不倫、というニュース。
確かにあまりイメージにはなかったけど、そうだとしても、ちょっと意外だな、くらいの話だ。
ていうか、なぜに世の中はそんなに不倫を騒ぐんだろう?
「いいか悪いか」の問題ではなくて、「あるかないか」でいうと、そりゃ、あるだろう、というのがわたしの感覚なんだけど。
一生でたった一人しか好きにならないという人は、一体どれくらいいるんだろう。
そもそも、人は変化していくものだから、どこかで道が別々になることはあるわけだし、離婚したから子供に不誠実というわけでもない。それは個人の問題で、一概に「ジャッジ」することはできないのに。


正義をかざして個人を糾弾する世の中。
その正義は誰のもの?


話を戻しますが、不倫をしていたというニュースに対して、裏切られた、失望した、サイテーだ、もう応援しない、というコメントが多く見られたけど、報道がある前も後も、佐藤琢磨の偉業は変わらないし、本人も何も変わっていない。
ただ、報道されて事実が明らかになっただけ。
一体、その応援していた人は、佐藤琢磨の何を見ていたんだろう?
一つの報道がされただけで、全てひっくり返るくらい、彼の偉業も人格も、軽いものなのか?


まぁ、そんなに長く、というのはあるけど、それも本人たちの事情だから、わたしがジャッジすることではない。
どの過程でどんな風に変わっていったのかは、報道だけではわからない。
ただ、わたしの中で、佐藤琢磨の価値が急に変わったりはしない。
だって、そもそもそんなに期待を寄せていたとかいうわけでもないのに、失望もなにもない。
ちょっと残念だけど、いろいろあるんだなー、みたいな感じ。


関係者としてはいろいろ問題があるでしょう。
でも、それに対して世間が騒ぐことではないと思う。
まぁそれも、一部ですが。


自分とは直接関係のない個人の、人格をジャッジしたり、行動を糾弾したりすることには、あまり意味がないと思う。
社会全体に影響を与えるようなことなら取り上げてもいいけど。
それより、自分や自分の周りの人たちが、どうすればもっと幸せになれるのか考えて行動することのほうが、大事なのでは?


変な話、みんなにとってのベストを尽くそうとした結果が、「7年間もずるずると」ということなのかもしれない。
「不倫」=「不誠実」というのは、あまりに一面的な見方なのでは?
それぞれに言い分があって、それは単純に「いい・悪い」で分類できるものとは限らないし、本当にわたしが聞きたいのは、みんなそんなに自分の身は潔白なんですか?ということ。
わたしはそんな彼のことを責め立てられるほど聖人君子ではないし、心が揺れることだってある。
以前はすごく好きだったけれど今はもう好きじゃないとか、好きだけどちょっと違うとか、そういうことはある。
それが結婚という過程を経ていたかどうかという問題であって、人間としては、あり得る話だと思う。
それにどう対処するか、どう結論を出すか、だけど、それは一つではないし、正解もない。
ブロガーのはあちゅうさんが「離婚」は別に「失敗」でも「傷」でもない、という記事を書いていたけど、わたしもその記事の内容には同感だった。


「変化を認めない」というのは、不寛容で窮屈だ。
宇宙は絶えず回転しながら膨張しているのだから、一定のものなんてない。
あるとしたら、それは「絶えず変化している」ということだけだ。


人間は未知のものが怖い。
だから、見えないもの、わからないもの、異質なものに対して、否定的な態度をとる。
異質なものに対しては、なんというか、妬みの混じった拒絶、のようなものがある。
ちょっとした羨望と軽蔑。
両者は裏と表なんだろう。


自分が持つ恐怖に向き合っている人は、むやみに他人を攻撃したりしないはずだ。
それは、そんなことをしても自分の恐怖がなくなるわけではないことを、知っているからだと思う。