デキる女をやめるべきか

ここ最近のわたしの思考の中で、かなりのウェイトを占めてきている「もうがんばるのをやめるべきか」問題。

 

いや、ずっと悶々としてきた。

物心ついたときから、ずっと。

 

プラスがプラスであるように思えない、空気。

成績がいいこと、論理的に話すこと、自分の意見をはっきり言うこと、リーダーシップが取れること。

そういうことが、正当に取り上げられることなく、嫌厭されたりスルーされたりする。

 

デキる女子より、「女子力」高い女子。

 

そんな基準はおかしい、人間としての魅力は普遍的なはずだ、そう思って、がんばってきたつもりだったけど。

 

 

最近になって、そんながんばりがもうどうでもいいことのように思えてきた。

「デキる女」なんて、いらないんじゃないの?

効率が悪くても、同じような失敗を繰り返しても、どうでもいいおしゃべりばかりしていても、きゃははーー、と笑ってカワイければ、それでいいんじゃないの??

 

がんばればがんばるほど、何かが遠のいて行く感じがある。

 

 

そんなことを思っていたら、何かの記事で、ある本のタイトル(と、サブタイトル?)を見かけた。

『ハッピーエンドを前提として この世は頭のいい女、がまん強い女ほど幸せになりにくいように仕組まれている』

 

わたしのモヤモヤがタイトルに!!

 

これ、著者が男性なのもポイント。

女性は言いたくても言えない。

むしろ「ブスのススメ」とかいう自虐がウケたりする。

歪みに歪みまくって、もうなにがなんだかわからなくなってくる。

 

 

結局、「自分らしく」「ありのままに」振舞っていてもいい、それが一番いい状態、ということが根元にはあるはずなのに、認めてもらうために無理にがんばるとか、受け入れてもらうために自分を曲げるとか、モテるためにあざとく演じるとか、そういうことがあまりにもあふれていて本質が置き去りにされていることが、強い違和感の原因だと思う。

なんか、ダメージ的には虐待と言ってもいいくらい。

個人が持つ資質とか個性とか、そういうものに対する配慮や敬意が欠落している。

 

「もっとがんばれ」が「今のアナタではダメだ」に聞こえる。

それはそこに流れている空気が、そう言っているんじゃないかと思う。

 

 

今日も、仕事をしながら考えていた。

もっと効率よくするには、とか、もっと記述をわかりやすくするには、とか、細かいところを確認したり問題点や解決策を考えたりしながら入力してしまう。

いつもそういうことが気になってしまう。

それがどこにも行き場がなくて活かされないと、自分の存在自体が無意味のように思えてくる。

そんなこと、必要ないんじゃないか、誰も求めてないんじゃないか、ただの口うるさい人なんじゃないか・・・

デキる女子になんて、ならないほうがいいんじゃないか・・・

 

 

そう考えても、自分自身を納得させることができない。

それは、そこを追求してしまうのがわたしであって、それが元々持っている資質であって、それはそれで尊重されるべきものだと、本当は思っているからだと思う。

みんなちがってみんないい、ということと、仕事をシステム化して効率をよくすることとは、別問題だ。

わたしはただ、よりよい環境を作りたいだけなのだ。

 

今の職場で、そういう役割として機能するのかどうかはわからない。

でも、タイトルの「デキる女をやめるべきか」ということについての答えは・・・

 

それって、やめられたりするもんじゃないんだろうな。

だって、それが持っているポテンシャルだから。

勝手に出てくるものだから。

 

 

そう。

わたしは、わたし。