日本人はなぜそんなにも「努力」という言葉で片付けようとするのか

わたしは昔から「努力」という言葉が嫌いだ。

その言葉が持っている雰囲気とかニュアンス、日本社会に蔓延る「努力」に対する過剰な期待値みたいなものが、プンプン匂ってきて嫌なのだ。

 

 

大学のサイトに載っていたトーマス・カーライルがふと気になって調べていたら、名言集のサイトに行き着いた。

 

読み進めていたら、こんなのがあった。

「天才とは、無限に努力できる能力のことである。」

 

さて、このサイトでは原文が直下に書かれていて、

Genius is an infinite capacity for taking pains.

となっている。

 

ほら来た。

また「努力」の意訳。

 

元々は「taking pains」と言っているところを、「努力」と訳している。

 

 

いちばん「努力」で有名なのは、これでしょうね。

Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.

「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。」

日本語だけ聞いていたときのイメージと、英語を聞いたイメージが、かなり違う。

確かに「汗が出るほどの努力」という意味ではあるけど。

 

直訳が難しいということは多々ある。

とはいえ、日本人はやたらと「努力」という言葉を使い過ぎているのではないか。

ある意味、「努力信仰」「努力崇拝」のようになっていて、それが頻繁に使われる言葉として表れているのではないか。

 

「やり抜く力」とか「執念」とか「実践力」とか、いろんな言い方はあるけど、なんかそれら全てを「努力」という言葉で安易に片付けてしまっている気がする。

なんでも「がんばる」とか「努力する」とか、そういう言葉を使っておけば許される、みたいな感じというか。

 

その漠然として具体性がなく、何か言っているようで何も言ってないような、そういう言葉が昔から苦手だった。

 

「努力」だけではどうにもならない。

もっと言葉にも、姿勢にも、体制にも、多様性を持たせてほしい。

 

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写真は2月3日の三日月。