ポリタスT Vで性犯罪(不同意性交罪)について扱っている回を見た、その次の日に、その一歩手前の案件報告を見る、ということがあった。
この国では、同意のない性犯罪であったということを立証するためには、被害者が「大声を上げて抵抗した」ということが必要であり、そうでなければ「同意があった」とされる。
今回の案件は、本人がかなり抵抗して未遂に終わってはいたけど、必死で抵抗しても相手の男性のほうが力が強いわけで。
「大声での抵抗」や「大きな物音」で近所から通報があったっぽくて、それが救いではあるけど。
今まで、何か事件があったときに、近所や知り合いなどの人から「そんなことをするような人には見えなかった」というコメントが出されているのを見るたび、本当かな・・・と思っていた。
逮捕後の報道で写真が出るときは、大概それっぽい顔をしていたし、そうじゃなかったとしても、何か怪しい雰囲気を醸し出しているものだと思っていた。
だけども。
報告を受けた相手は、パッと見、どこにでもいそうな普通の若い男性だった。
実際に会ったときにどう感じるかはわからないけど、少なくとも写真ではわからなかった。
やっぱり、悪魔は悪魔の顔をしているわけではないし、もっというと、常に悪魔が表に出ているわけではない。
いや、もしかしたら、どんな人にも悪魔はいるのかもしれない。
そして思った。
一見普通そうに見える男性にさえ、ミソジニーが存在している。
別れるという相手に「ヤらせろ」ということを言うことの裏には、性に関して女性は男性に従属しているという意識が見てとれるし、「こんなふうに自分が不幸になったのはお前のせいだ」「自殺してやる」と脅迫して相手に罪悪感を持たせようとするのは、女性を対等に見ていないだけでなく、女性に対しては甘えが許される上にそれが満たされなければ傷つけてもいい存在だと思っていることが窺える。
根深い問題だと思った。
これを「個人の問題」と捉えることもできるだろうけど、わたしにはそう思えなかった。
何というか、アップデートできない日本人男性の病理のように感じたし、それは社会現象のように思える。
ミソジニーに溢れた社会で育つから、無意識にそれを内包してしまう。
そんな気がした。
だから多分、その男性は自分の中に悪魔がいることに気づいていない。
時を同じくして、Beastie Boysのドキュメンタリー映画を観た。
そして、アダム・ヤウクのこの言葉に出会った。
The disrespect to women has got to be through.
なぜこうも、天才気質は短命なんだろう。
やっぱり天使は地上に長く生きられないのか。