働かざるもの

この問題は大きい。
社会全体にも関わる問題。
働きたい、働きたくない、働ける、働けない、・・・・・
そもそも、「働く」の定義はなんだ???と、考え出すと無限に広がってしまう。
会社に入ってお給料を貰うことだけが「働く」ことではない。
ビジネスを持ってお金を稼ぐことだけが「働く」ことではない。


昨夜、ある先生から電話があり、私が今「収入がない」状態であることの話になり、「娘が世話をしている父の年金で一緒に暮らしているのは普通のことなのよ」と言われ、それでも私としては、「やれることはあるのにやっていないんじゃないか、働いていないのは怠慢なんじゃないか」という気分から抜け出せないでいる。
そのことを今朝、食器を洗いながら考えていた。


私が何時間か家を空けるときがあると、父はよく、私が帰るまで待っていて、「トモコが帰ってくると、ほっとする」とか「顔を見ると、ほっとする」とか言う。
別にニコニコしているわけでもない、私なのに・・・・と思う。
そしてそれは、私が家を空けにくい理由でもあり、ずっと心の隅っこにある、逆らえない引力みたいなものでもある。


考えていると、昔からだった。
私が小学校3年生の時に脱サラして母方の商売に入った父は、日曜日や長期休暇などの学校が休みの日には、私を店に連れて行って店番を頼んだ。
2人の兄ではなく、いちばん小さい私を連れて行ったのは、やっぱり父親にとって娘という存在は特別だからなんだろうか?「お兄ちゃんは勉強があるから」みたいなことを母親に言われたけど、私が受験する時期が来たって変わらないんだろうということには気付いていた。
「どうして私だけ?」とは思っていたけど、必要とされているのは解っていた。
だからそれに応えようといつも思っていた。
お盆やお正月の時期に私が休みに入ると、「トモコが来ると、安心する」とよく言われていた。やっと助っ人が来た、みたいな。
だから私は父に常に必要とされているような感覚が、どこかにずっとある。


今は働けない。というか、働いていない。
でも、よく考えてみれば、私、小学校3年生から働いていたんだ。
当時は「お手伝い」であって「働いている」という感覚はなかったけど。
じゃあ今は、その分を貰っているということで、いいのかな?


そんな風に考えないと、今働いていないという状態を受け入れられない、窮屈な私。
そして社会全体のことまで考えが広がってしまう、底なし沼。



でも、こんなどうでもいいような私のブログを読んでしまっている人にも、何かのヒントになればいいんだけどなぁ・・・・なんて思いながら自分の事を書いている訳です。
はい。


ところで「働く」とは、「誰かの役に立つ」ことなのかなぁ、なんて思ったりもするのでした。