Me tooの動きがあっても、なかなか根源に辿りつかないのには、きっと理由がある。
セクハラの被害を受けた人は、まず戸惑い、次に思う。
どうしてこうなったのかと。
そしてなぜか、自分を責める。
自分に過失があったのではないかと。
防ぐことができたものを、防げなかったのではないかと。
それは友人が席を立ち、一人きりになった時に起きた。
無理矢理キスをされ、胸を触られた。
そして急に思い出した。
host fatherに胸を触られたことを、彼の死後に、やっとhost motherに言えたことを。
事件直後には言えなかった。
私の異変に気付いたhost motherに何度聞かれても、「言えない」としか言えなかった。
そんなこと、言えない。
そんなこと言ったら、host motherを傷つける。
わたしを理解する、大事な彼女の心を。
だから言えなかった。
起こってしまったことの責任を、自分の身に背負ってしまった。
わたしは被害者なのに。
そしてまた。
ことは起こってしまった。
わたしは自問する。どうすればよかったのだろうと。
そしてまた、友人に言えなかった。
なにが起こったのかということさえ。
最寄り駅までたどり着き、あれをどう考えるべきか、どう対処するべきだったかを考えながら歩いていたら、酔った男性に声をかけられた。
ここまできたらもうどうしようもない。
わたしが眉間に寄せていたシワは、その男性の目には入っていない。
そして思った。
男性側に、セクハラの意識はない。
自分が相手を傷つけ追い詰めていることの、自覚なんてないのだ。
しばらくずっと、鎧を着けていた。
「わたしに寄ってくるな」というメッセージを、常に発していた。
そんな生き方は疲れたから、もう鎧は着けたくないと思った。
なのに。
なぜまだこんな思いをするのか。
家の近くまで帰って来て、涙が出て来た。
悔しさなのか惨めさなのか悲しさなのか、わからない。
ずっと何か理不尽なものに対して我慢してきた何かなのかもしれない。
被害者なのに、虐げられた感情。
被害者なのに、辱められる思い。
それらはただただ、涙となって溢れてくる。
こんなに傷つくということを、相手は知らない。
それを知らしめる方法を、わたしは知らない。
この感情の行き場は、どこにあるんだろう?