ひとりじゃない

「死んだら負け」というのは負けてもいいから楽になりたいと思っている人には響かない、というコメントを見かけた。
確かに、わたしは負けず嫌いだったから生き残ったけれど、それでも、もう負けでもいいから楽になりたい、と思ったことは何度もあった。
わたしは弱い人間です、すみませんでした、と、よく日記に書いていた。
弱い人間だとか負け犬だとか、そんな烙印を押されてももうどうでもいいです、という気分にもなった。


そのとき最終的にわたしの歯止めになっていたのは、自分が楽になって周りが辛い思いをするのは違う、ということだった。
「止められなかった」という十字架みたいなものを、誰かに負わせるのは嫌だった。


そして何十年も経って、こんどは父を「止められた」のは、偶然でもなかったのかもしれない。


結局わたしは、自分を思いとどまり、母は止められず、父を止められた。
こうやって一言でまとめてしまうと、やっぱりそこには何かのカルマがあったとしか思えない。


10代の頃、その怒りと苦しみと悲しみと絶望の最中にいたとき、表面的な励ましの言葉には白々しさを感じたし、「負けないで」とかいう歌にはちゃんちゃらおかしいと鼻で笑っていたし、熱血教師の説教には相手の状況や気持ちを知りもしないで偉そうに言うなと思っていた。
本当の苦しみを知っていたら、そんな軽々しいことは言えない。
無知の知じゃないけど、自分が想像できないことが存在するということを知った上でそんなことを言っているのか、と思っていた。


ロックが支えだった。
どんな綺麗事より、真実に近いと思っていた。
荒れた心を表現する音楽のほうが、軽はずみな励ましの言葉より自分に寄り添っている感じがした。
それは多分、共感だ。
経験は違っても、心が共感できるということ。


誰にもわかってもらえないと思っていた。
でも、数は少なくても、そんなわたしの苦しみを誰かが「知っている」ということが、わたしの歯止めになっていた。
結局、人の経験はそれぞれ違うとしても、「共感」があるかどうかが重要だったんじゃないだろうか。


「死んだら負け」というのは、確かに違うと思う。
もう死んだほうがいい、と思っているのだから。
それより、「自分一人じゃない」と思えるかどうかなんじゃないだろうか。


わたしはひとりじゃない。


そういえばそんな曲を書いたっけ。
急に思い出した。


わたしはひとりじゃない
だから生きていける


どこかに歌詞が残っているかな・・・



追記:
前にも書いたけど、父を止められたのは、「止めよう」と思って意図的に行動したのではなく、結果的にわたしが止めたことになったのが後で判明しただけで、でもそれは、どこか以心伝心のように、「それはいけない」と思うわたしの気持ちが父に伝わっていたからなんじゃないかと思う。
わたし自身が思いとどまったとき、その中に父の存在があったことも、関係しているように思う。
だからやっぱり、「想い」の強さは反映すると思う。
そしてそれは多分、親子なんだから当然、なんていうものではなく、親子であれ他人であれ、強い想いがあれば伝わるということなんだと思う。