自分なりの判断基準を持っていないと、「見極める」というのは難しいのかも、と思う。
この「見極める」ということも、以前は当然のことだと思っていた。
みんなが普通にやっていることだと。
でもね、案外普通ではないとだんだん気づいた。
だから炎上があったり、いじめがあったり、差別や偏見があったりする。
例えば。
私の友人は、ある問題を起こした。
それを「些細なこと」というのは違うかもしれない。
でも、失敗や問題行動は、大小はあっても、誰にでもある。
そして最も大事なのは、それが起きてしまった背景と、今後は改善する見込みがあるか、そうしたいと思っているか、だと私は思っているのだけれど。
その友人の世界では、一発アウトらしい。
失った信頼は二度と取り返せないらしい。
もうその関連の職には就けないという。
それって、おかしくない?
排除して、終わり?
原因を追求して、繰り返さないようにするのが「対策」なんじゃないの?
一度でも問題を起こせば「問題児」としてレッテルを貼られて、二度と信用してもらえないの?
しかも。
それがいわゆる「教育」や「子供の育成」と関連のある公の場で。
そこで思った。
みんな「見極め」ができないんだ。
何か問題が起こった時に、原因が何なのかも見極められないし、それを防ぐにはどうすれば良かったのか考えることもできないし、改善策を考えて試してみることもできないし、だからチャンスを与えることもできない。
そんな作業は全部放棄して、一発アウト退場にして、目の前から消してしまうことでしか対処できない。
根っからの悪人なのか(むしろそんな人はかなり少数かもしれない)、溜まりすぎたストレスで問題を起こしてしまっただけの人なのか、そしてその原因がもしかしたら職場環境も影響していたのか・・・なんてことは考えないのか。
自分で見極められない。
だから誰かの言うことを鵜呑みにして、騒いだり叩いたりする。
そして人を追い詰める。
現象を見極めることもできないから、その結果起こってしまうことも見極められない。
ちゃんと見て、聞いて、考えて、判断して、行動する。
そんなことは標準装備だと思ってた。
そうじゃないなら、どこかで身につけるべきだ。
それをやっている機関が、そこに関わる人間が、それをわかっていないなんていうのは、そろそろ終わりにしないか。