直感に従う

それは言い換えると、自分の声を聴くということなのかもしれない。

直感に従うということ。

 

それは意識していなければ、劣っていく機能なのかもしれない。

幼い頃は不思議と発見の毎日だったのが、だんだん同じ毎日の繰り返しになり、決まった範囲でのみの行動になり、何も考えなくても平穏無事に過ごせるようになる。

そうなってしまったら、直感を使う場面なんて、そうそうないのかもしれない。

 

 

そうかもしれない。

なのに、わたしはやっぱりそう思わない。

 

 

生命の危機に脅かされなくても、直感を使う場面なんていくらでもある。

むしろ直感を使っったほうが、物事はシンプルになる。

合う合わない、好き嫌い、なんかよさそう、ちょっと違う。

そんな日常的な直感的な判断基準が、物事の行く末を左右している。

 

直感に気付けるかどうか。

そしてその直感に、従えるかどうか。

 

 

現代の社会で、直感は軽んじられている。

そういう本能的な部分は、まるで理性的な部分に劣っているかのように語られる。

女性が感情的であると軽んじられているのと同じように。

理論的であること、理性的であること。

それが模範であるかのように扱われてきた。

 

 

だけどもう時代は、「感覚的」「直感的」「本能的」な時代に移り変わろうとしている。

もう「支配的」「排他的」「画一的」な時代は終わろうとしている。

 

 

そんな新しい時代に向かう今、これまでと違うヴィジョンを持て、と言われても、ついていけない人たちがいる。

「個」を認められず、「空気を読め」「出る杭は打たれる」「長いものに巻かれろ」と言われてきたのに、急に「これからは個性が輝く時代」とか言われても、対応できない。

必死で埋没させてきたのに。

それが正攻法だと言われてきたのに。

 

いや、そんなことを思っているのはまだいいほうで、その変化に気づいていない人の方が多いのかもしれない。

観客に向かって「てめーら」とか「おめーら」とか言っている時点でアウトなのに、時代はもうそれを必要としていないのに、気づいていない。

旧社会の残骸。

過ぎ去った時代は、過去のものでしかない。

戦国時代も、石器時代縄文時代となんら変わらない。

終わってしまえば過去のもの。

 

 

評価と哀愁は違う。

「あの頃は良かったね」も、プラス向きかマイナス向きかで違ってくる。

 

 

かなり話が逸れてしまったけど、最近直感に従うことが増え、その結果も納得のいくものが多く、結局直感に従うことが最善のように思えてきた。

「自分の直感」というのは、一見不安定なものに見えて、実は一番確実なものなんじゃないかと思ったりする。