言葉は暴力になり得る。
最近ではSNSでよくある話だけど、そういう匿名性に関わる場所に限ったことではない。
セクハラやパワハラも、行動だけじゃなく言動も当てはまる。
言葉が暴力になるとき。
それは物理的な「叩く」という行為と似ていると思う。
ハンマーで釘を打ち付けるような。
出る杭は打たれるというけれど、そのとき「打つ側」が使っているものって、圧倒的に「言葉」なんじゃないだろうか。
言葉の暴力というと、イメージとしては言葉自体が暴力的だったり、汚かったり大声だったりというのがあるだろうけど、わたしが時々思うのは、世間の同調圧力的な言葉、例えば「あの人はあの歳になっても嫁に行ってないなんて可哀想ね」なんていう言葉も暴力だ。
こういう言葉ってセクハラといえばセクハラなんだけど、厄介なのは、女性同士が言っている分には、一般的にはセクハラ案件じゃないと思われているところだ。
人格に対する攻撃は全てハラスメントだし、男女関係ないんだけど。
それを理解している人は、意外と少ない。
あ、あれですね。
マララさんのお父さんの言葉です。
「娘の翼を折らないように」ってやつです。
何の気ない言葉だと思っている、その言葉が、いくつもの翼を折り、いくつもの心を折ってきた。
わたしは、ともすると自分の言葉は誰かを刺してしまうかもしれない、と、いつもどこかで思っている。
自分の意見を言うことが大事だと思うのと同じくらい、自分が真実を明らかにしたり真理をついたりすることで、誰かが痛い思いをするかもしれないという自覚を持っている。
いくら自分が正しいと思っていても、自分の正義が相手の正義と同じとは限らないし、相手には必要ないことかもしれない。
だからできるだけ慎重に選ぶ。
でもそれでも傷つくかもしれないと思っている。
脊髄反射で辛辣な言葉が出てくることがある。
そういう場合、何に反応しているかというと、大体は嫉妬だとか足の引っ張り合いだとかいう醜い争いごとを見聞きしたり、理不尽やハラスメントに遭遇したときだ。
そういうことが許せない。
ハラスメントに対抗するには、それなりの言葉が必要だ。
言葉はツールだ。
ペンは剣よりも強しと言うけれど、武器になるからといって、誰でも言葉で刺していいわけではない。
言葉にはパワーがある。
そのパワーを使うには、それなりの自覚と技術が必要だとわたしは思う。