今日のタイトルは、Twitterのリツートにコメントを書いていて、出てきた言葉。
リツイート元の内容は、
「日本の政治学では『超豪華メンバー』を揃えようと編者が無意識のうちに人を集めると、男性ばかりの執筆陣になってしまう。(中略)実力だけを考慮した結果、結果的に男性になっただけだ、と考える人がいるかもしれないが、そもそもスタートラインが同じではないのだから、『実力』だけで見るのが公平とは思えない。自由な選択と競争だけに任せていては、ジェンダー平等は決して達成されない。だから、意識的に、変えていかないと」(@sakamotoharuya)
というものだった。
ジェンダー問題に関して声を上げているのは、基本的に女性や性的マイノリティの人が多いんだけど、最近は男性からも、今回引用したような内容のコメントが見られるようになったと思う。
これは本当に素晴らしいことだと思う。
一方で、こういう声を上げると、すぐアンチなコメントが湧いて来るんだけど、そういう態度を取っている人って、絶対女性からは人気ないだろうなと思うし、またその感情が回り回ってミソジニーにつながっているのかもしれないと思う。
なんか小田急線の事件を思い出しちゃったけど。
自分が変われないことでさらに自分を追い詰め、出口がわからなくなって極端な行動に出るのかもしれない。
自分の立場を正当化するために、弱いものを叩いたり押さえつけたりするのは、その人に内在する「弱さ」の現れだと思う。
わたしはそういうものに対して物心ついた頃から敏感で、自分の優位性を振りかざすような大人に対しては「ケッ」と思っていて、「大した人間じゃない」とか、「雑魚を相手にすることない」とかいう反抗的な態度を取っていたんだけど。
だんだんと分かってきたのは、そういうあからさまな人でなくても、世の中の不平等性や不均衡、不条理といったものに無意識な人が多いということであり、意識したとしても「仕方ない」「そういうものだから」と言って変えようとしない、変わろうとしない人が意外と多いということだった。
ずっと「そんな人は無視すればいい」「どうせ淘汰されるだろう」と思っていたけど、一向に淘汰される気配がない。
これは本気で何かしないとヤバいのかもしれない。
そう思えてきた。
最近になって、男性の中にもジェンダーに対して発言する人が増えてきたけど、それは多分、今までそういう人がいなかったのではなく、可視化されてなかったということもあると思うし、違和感を持っていても発言するまでには至らなかったということもあると思う。
ただ、社会全体の空気感として、そういうことを「言いにくい」風潮があった今までと最近では、やっぱり違いがあると思う。
そしてこの風潮は、すごく大事なことだと思う。
さっきの話でいうと、わたしが「雑魚だから相手にしなければいい」と思っていた人たちも、社会を構成している一員であり、さらには「意外と多い」わけだから、そこを無視している限りは前に進めない。
将棋の歩だって、そこから崩していかなければ王将にはたどり着けない。
例えがちょっと変だけど、要は相手の大きさではなくて、数の問題だということ。
やっぱり、どれだけ味方がいるかということが、何かを動かす上では重要になる。
飛車とか角行とか、いろんな個性を持ったチームを形成することも、もちろん大事だけど。
話が逸れてしまったけど、男性がジェンダー問題に取り組むということは、実はものすごく男性的なのではないかと思う。
それは「真の男性性」という意味で。
もちろん、ジェンダー問題は男性に「男らしさ」を押し付けるのも弊害になるということがあるから、「そうあるべき」ということが言いたいのではないのだけれど、本当の意味で男性性が生かされるのは、攻撃的になることではなく、何かを(特に弱いものを)守ろうとすることなのではないかと思う。
何かを守るために策を練り、力を発揮することで、自分の中の男性性が輝き、満たされるのではないだろうか。
そしてその「男性性」は男性だけが持っているわけではなくて、女性の中にもあると思う。
少し前に書いたけど、わたしの中に「ナイト(knight)」がいるというのも、この男性性の部分だと思うし、実際わたしの性格の中に、子供や若者など立場が弱いものを守ろうとする部分があって、それを発揮しようとするとき、ものすごいパワーが出ていると感じる。
自分よりも弱い立場の人を守ろうとするとき、その人の中にある男性性が一番生かされると思う。
だからこそ、ジェンダー問題に対して声を上げている男性を見ると、本当に素晴らしいと思うし、それだけで魅力増し増しだと思う。
世の中の男性には、それを知ってもらいたい、本当に。
そして、そういう人にやっかみを持つんじゃなくて、自分もそうやって同じように魅力的になろうと思ってほしい。
今日も写真はマウナケア。
無数の輝きがいつも美しい。