本当は昨日書こうと思っていたけど、衝撃の事件があって、書けなかった。
とはいえ、今はまだその事件について書けるほど頭の整理ができてないので、とりあえず昨日書こうとしていたことを書くことにする。
どれだけ同じ熱量で書けるかわからないけど。
ここ最近になって、思っていたこと。
「わたしはこうやって、ただのオバサンになっていくんだろうな」
前にも書いたけど、わたしは童顔なので、年齢相応に見られることがほとんどなかった。
幼く見られることにはコンプレックスがあったし、どうやったら年相応に見てもらえるんだろうとか、悩んだこともあった。
「不一致」という苦痛。
それは年齢に限らずあったわけだけど。
ある程度年齢を重ねた頃から、わたしは年相応に見られないことを「ネタ」として消費するようになった。
いわゆる「自虐ネタ」として、笑って話すようになった。
そのほうが、楽なのだ。
真に受けて傷つくより、ネタとして笑ってしまったほうが。
それでも、年齢というものは、「増えていく」以外の選択肢がない。
生きている以上、年齢は重ねていくしかない。
なのに、女性が歳をとるということは、「マイナス要素」でしかない。
「歳と共に味が出てくる」というのは男性の特権であって、女性には適用されていない。
その代表格のような「オバサン」という言葉が、わたしは大っ嫌いだった。
その言葉には、侮辱があり、軽蔑があり、嘲笑があり、見下しがあった。
だからわたしは、その言葉を嫌い、避けて、口にしなかった。
それでも、時間の流れには逆らえない。
時間の経過と共に、人間の体は変化する。
少し前から視力の衰え、つまり「老眼」の兆候があり、そろそろ考えないといけないな、と思っていた。
そして最近では、更年期障害と捉えられるような汗のかき方をするようになったり、謎の頭痛に悩まされたり、体重や体型の変化も感じるようになった。
そして。
先日の西伊豆旅行のとき、同行した友人と久々の写真を撮ったことで、更にそれを自覚することになった。
いろんな意味で「劣化」している。
そうか、こうやってわたしは、ただの「オバサン」になっていくんだな。
ただのオバサンになる。
そう思う理由は、「わたしは何も持っていない」という昔からある感覚のせいだ。
裕福な家庭に生まれた訳でもないから教養も品性もないし、進学の自由もなかったから人に言えるほどの学歴もなく、雑でガサツな性格で女性らしくもなく、背は低いし、美人でも可愛くもない。
わたしは何も持っていない。
そんなわたしが歳をとるということは、ただオバサンになるということだ。
それは絶望だ。
だから「オバサン」という言葉を避けてきた。
だけどもう、どうにもならない。
わたしは「ただのオバサンになる」のだ。
肌にはハリがなくなり、くすみ、シワが増え、シミができる。
正直言って、「汚い」。
そんな汚い肌と向き合わなければいけない。
どんなに内面が純粋であっても。
真っ直ぐな心があっても。
そんな魂を入れる「容器」は劣化していく。
魂が純粋であればいいと思っていたけど、そんな理想論とは関係なく、身体は老化していく。
「可愛いおばあちゃん」になりたいと思っていたけど、その前に課題があった。
「オバサン期」はどうすればいいのだ?
そしてわたしは諦めることにした。
もう、わたしには「ただのオバサンになる」という選択肢しかないのだ。
それは世間で言われている行末なのだ。
わたしの心や魂に対しての配慮や評価など期待できない世の中で、更年期を迎えたわたしに対する「カテゴリー」は、「オバサン」でしかないのだから。
Over the Sunというジェーン・スーさんの番組って、「オバサンを取り戻す」みたいなところから来ているって、何かで見かけたんだけど、それを知ったときはまだオバサンという言葉に対しての抵抗が強かったときだったから共感できなかったんだけど、今ならちょっとわかる。
なぜ女性が「オバサン」という言葉に否定的に思わなければならないのか。
それは社会的な価値観のせいだ。
「オジサン」に価値はあっても「オバサン」に価値はない。
そんなこと、誰が決めたんだ?
わたしが持っている価値って、そんなもんなのか?
歳を取ったら、薄れたり無くなったりするものなのか?
わたしが自信を持っていることがある。
それは、「教える」という才能だ。
相手のニーズを掴んで、自分が持っているものを使って、相手の才能を引き出す、ということにおいて、発揮できるもの。
それには自信がある。
わたしは、それを軸に、進んでいくだろう。
その軸は、わたしが「若い女性」だとか「オバサン」だとかいうことに関係なく、たとえ一般的には「オバサン」であっても、子供たちにとっては「ただ、いい先生」であるという信念に基づいて辿り着く、そんな場所なんだと思う。