もしかしたら

場所を間違えたせいで、
わたしのしていたことは、なんにもなってなかったのかもしれない。
話を聞いてあげたことも、理解者であろうとしたことも、本当は必要なかったのかもしれない。
わたしの勝手な判断は、方向性を間違っていたのかもしれない。
わたしが担当でなければ、もっとまともになっていたのかもしれない。


何度も何度も、自問自答しながら、挫折しそうになりながら、それでも続けてきた。
最善を目指してきた、つもりだった。


もうわからない。
その道のその先は、もう見えない。




I tried so hard
And got so far
But in the end
It doesn't even matter
I had to fall
To lose it all
But in the end
It doesn't even matter...




ある生徒のことを思い出した。
前回のとき、夏期講習で一度だけ担当した。
母親の熱心さとは裏腹に、本人は全くやる気がなく、テストの点数も一桁かそれに近く、担当の先生が嘆いていた。
でも、それでも授業には来るくらい、あまり反抗的な態度を取らない子だった。
無理に勉強を押し付けても身にならないのに、もっと別のことに費やしたほうが良さそうなのに…とずっと思っていた。
そして夏期講習のとき。
「何をしているときが一番楽しい?」と聞いてみたら、「ミシンで裁縫をしているのが好きで、何時間でもできる」「でもそんなこと母親には絶対言えない」と、彼は答えた。
こうやって才能は潰されていくんだと、哀しくなった。
英語の点数を何点か上げることより、よっぽど貴重なことなのに。
特にやりたいことがないとか熱中するものがないとか言う人間が多い中、自ら見つけたものなのに。
このことを知っているのは自分だけかもしれない。そうは思っても、担当でもなく、関わる機会もない。そしてわたしは地元に戻ることになって教室を離れてしまった。
最後に彼を見かけたとき、目の輝きが完全に消えていて、まるで廃人のようだった。
その姿が、ずっと残っている。
わたしは彼に何もしてあげられなかった。
それを地元で兄に話したら、「その子にできなかったことをこれからするのが使命なんじゃないの?」と言われた。
意識はしてなかったけど、心のどこかにそのことがあったのかもしれない。


あれから7年。戻ってきた教室。
今回は、やれるだけやったんだろうか。
そのときにできなかったことを、少しはできたんだろうか。


何かしてあげられたかどうかの結果は、なかなか返ってこない。
だから結局、自分が信じることをするしかない。





日付を全て使ってしまったので、長くなるけどここに追加。
リリイ・シュシュのすべて」を観た。
いろいろ残った。
最後の方で、担任の先生が主人公に悩み事があるのかと聞くシーンがあった。彼は「ないです」と答える。
それで小学校5-6年生の担任を思い出した。
彼は「悩み事があるなら相談しなさい」と言っていた。
私はそれを聞きながら、よくもそんな言葉が言えたもんだと思っていた。
本当に深い悩みであればあるほど、人になんか言えない。
どう表現すればいいのかさえわからない。
辛ければ辛いほど、言葉になんか、ならない。
その闇を知らないから、「相談しなさい」なんていうセリフが言える。
映画の中の担任は、自分のクラスの生徒が自殺したのに特に変わった様子もなく、主人公が突然嘔吐して耳鳴りがすると言っても、何が起こっているのかを追及することもなかった。
ああやっていじめは見逃されていくんだろう。


声なき声を拾うということ。
絡まった糸の端っこを探して、掴んで、根気よく解いてあげること。



私の声を拾ってくれたのは、中1のときの担任の国語の先生だった。
彼女は私の中にある何かに気付いて、それを詩という表現で「言葉にすること」を勧めてくれた。
そうやって、自然に引き上げてくれた。


今日は本当にいろいろ考えた1日だった。