スピーチを手伝う

高校生の生徒。
珍しく自ら進んで振替を設定してまで授業に来るので、何か理由があるんだろうと思っていたら。
学校の英語の授業(英語演習)でスピーチがあるので原稿を考えないといけない、とのこと。
テーマに従って内容を考えて、文章をまとめ、とりあえずなんとか形を作った。


誰かのスピーチを考えるというのは、自分のスピーチを考えるより難しい。
部分的に「これをどう英語で言えばいいのかわからない」ならまだしも、1から考えるというのは荷が重い。


なぜなら、スピーチというのは、その人の意見だったり考え方を反映するものだからだ。
ちょっとした言い回しにも、言葉の選び方にも、主語を何にするかにも、その人の人柄が出る。
だから丸投げは困る。
だって、わたしのスピーチじゃないから。


だからできるだけ細かく聞いて、その人らしい内容を考えて、どの言葉で表現するか決めるというのは、結構頭を使うし気も遣う。
そして毎度のことながら、それが良かったのか正しかったのか、明確な答えはない。


本人は、とりあえずスピーチができればいいのかもしれない。
そこまで完璧なものを求めているわけではないのかもしれない。
でも、わたしとしては、ベストを尽くしたいと思ってしまう。


以前勤めていた派遣先の社員さん(今では友人)が製造元であるアメリカの会社にメールをするとき、英語があまり得意でなかった彼女は、自分の書いた文面でちゃんと伝わるかどうか、時々わたしに確認していた。
わたしは彼女の伝えたい内容を聞いて、その意図が伝わるにはどうしたらいいかを考えて返答していたんだけど、後に彼女から言われたことがあった。
わたしがいなくなって上司に確認してもらったら、彼女が書いた文章は全否定で、ほぼ原型を残さない修正の仕方をされた、と。「とんちゃんは、できるだけわたしの書いたものを生かそうとしてくれてたんだね、その優しさがそのときすごくわかった」と。


それは優しさというより、尊重のようなものだと思う。
英語が得意ではなくても、伝えたいことを一生懸命考えて書いたということ。
それを根本から覆すのは、彼女の行為そのものを否定しているようなものだ。
英語が完璧なことに意味があるんじゃない。
伝えようとする姿勢に、意味があるのだ。
そして、自分が考えた文章を少し変えればもっと伝わりやすくなるということがわかれば、次は自分で書けるようになる、そのちょっとした進歩が大事なのだ。


きっと彼女も、それを感じたんだと思う。
それが嬉しかった。


今回のスピーチは、どうだったのか。
その答えは、今はわからない。
だけど、その時の彼女のように、何かが伝わっていればいいと思う。