朝の中央線で

朝、ギリギリの時間に家を出て、ぐうたらとなかなか起きなかった自分に呆れながら駅に着いたら、改札から人が溢れ出ていた。
止まったんだな、と思って掲示板を見たら、中央線も総武線も、運転見合わせ。
どうやら事故発生直後らしく、振替輸送井の頭線に向かって、人がわんさか流れている。
いや、そうなんだけど。
みんな、そんなにしてまで、行かなきゃいけないの?


大混雑の井の頭線に乗ってまで行かなければいけない理由が見当たらない。
もちろん、仕事ですけど。
絶対に定時に行かなければならないという内容の仕事をしているわけでもない。


無理をする意義が見出せなかったので、上司にメールし、駅の様子を見ていた。
同じように、待っている人もいる。


20分ほど待っただろうか。
止められていた自動改札にまた電源が入り、入場ができるようになった。
とりあえず総武線が動くかな、と思ってホームまで上がったら、ちょうど運転を再開するところだった。
乗り込んでみる。
運転開始。
出発間際のドアが、2度も3度も、駆け込む人にぶつかっては開いて閉まってを繰り返す。
「次の電車も来ますので無理なご乗車はお止めください」とのアナウンス。
ほんとうにそう。


さすがの総武線も、混雑気味。
それでも荻窪では乗り換えのためか、人が減った。
空いた奥のドア間際に移動した。


次の駅は、事故のあった駅だった。
ホームからはみ出して止まった車両が見え、ホームの一部には黄色いテープが貼られ、バケツが2個あり、その近くで警察と駅員が話をしていた。先頭車両近くにも、警察と駅員。


そのような光景を見たのは、初めてだった。


その車両に乗っていたら・・・
そのホームに居合わせたら・・・
想像したことはあった。
それは辛い。
わたしには、辛い。


そこから、いろいろと考えてしまった。
こんな晴れた日に。
電車に向かっていかなければならなかった理由は、なんだったのだろう。


先日、久しぶりに会ったA子ちゃん。
「小説で世界を救いたい」と、高3の時に言ったという。
それを思い出した。


「世界を救う」とはなんなのだろう。
その「世界」は、目の前の「たった一人」とつながっている。


「誰かを救う」とは、どういうことなのだろう。
わたしは誰かを「救えている」んだろうか。


春に向かう、こんな晴れた日に。
ここ東京では日常的に起こっている人身事故だけど、今日は特に、若い女性、もしくは女の子の姿がちらついて、どこかで壊れてすり抜けてしまった何かが引っかかって、気を抜くと泣いてしまう1日だった。


A子ちゃんが小説なら、わたしは音楽で世界を変えたい。