全文を読んで、途中涙が出そうだった。
そういう声を、他でも見かけた。
今まで幾度となくかき消されてきた言葉が、「東大の祝辞」ということで注目されている。
なので、わたしも今思うことを書いておこうと思う。
このことについては、あまりに思うことが多過ぎて、あまりに怒りを覚えたり落胆したりすることが多過ぎて、もう言葉にならないくらいになっていた。
どう表現すればいいのかもうわからないくらい、絡まって絡まって、捻れてねじ曲がって、ぐちゃぐちゃになっていて、もう触りたくないくらい。
だけどそれを諦めたら終わりだ、という観念は、どこかで消えずに残っていた。
今回のことで思うのは、やはり「声」を上げることが大事なんだということ。
優秀であることがマイナスになる。
能力があっても発揮できない。
今まで、そういう女性がどれくらいいたことか。
誰だったか、今日見かけた記事に「優秀な男性は優秀な女性を選ぶから、賢さを隠さなくても大丈夫」という内容のことを書いていた。
それは確かにあると思う。
「東大女子」と聞いて引くような人は、自分の価値観や判断基準を持たない、無知な人なのだ。
女性が理知的であることを嫌厭するという社会において、「女はちょっとバカっぽくしたほうがモテる」とかいうことを推奨するような風潮があった。
そういう「戦略」を取るなんていう考え方にも辟易していた。
「バカを演じる」とは何事だ?
それこそ、相手を「バカにしてる」でしょ。
男女関係なく、「知的」であることは素晴らしい。
わたしはそう思う。
その「知的」とは、決めつけをせず、常に探究心を持って何かを深く「知ろう」とし、自分の能力を伸ばし続けようとする、そしてそうして自分が得たものをみんなと共有して豊かになろうとすることだ。
上野千鶴子さんの言葉に励まされた。
わたしも行動して、声を発していこうと思う。