エネルギーなのかなんなのか。
テンションの低い誕生日。
午前中は英会話の仕事があったので早めに起きたから、寝不足気味というのもあるんだろうか。
お昼は帰りになんとなくサンドイッチを買って、少しだけランブルスコを飲んで、チョコレートケーキを食べてみたものの・・・
全然食が進まない。
ケーキは甘いしコーヒーは苦い。
いや、そうなんだけど。
そういうものなんだけど。
こういうの、時々ある。
感情がスポンと穴にハマったような、どこかザワザワするような、ピリピリするような、時空の歪みに取り残されたような感覚。
なにも誕生日に来なくてもいいでしょ、っていう。
いや、だからこそなのか。
もはや誕生日に何の意味があるのか、何をお祝いしているのか。
楽しむつもりだったランブルスコもケーキも、とってつけたような無意味なお飾りのようで、形だけ揃えてみたけど気持ちが置いてけぼり。
誰かに会いたいような気がして、思い浮かんだのは母だった。
そうだ。
わたしは母に甘えたかったんだ。
誕生日を祝ってもらったり、プレゼントやお花をもらったり、したかった。
産んで育ててくれただけでも感謝だと思う。
今こうやってわたしが生きているのは母のおかげだ。
だけど羨ましかった。
誕生日をお祝いしてもらえることが、わたしには夢だった。
だから今でも誕生日が辛いのか。
わたしにとっての誕生日は、それを思い出す日なのか。
叶えられなかった夢を追い求める日なのか。
その思いを超えることもなく歳の数だけ増えていく。
そんなことを考える日なのか。
誕生日って、なんなんだ。
なにがおめでたいんだ。
さっぱりわからなくなった。
誕生日は親に感謝する日だと、何かのドラマで言っていた。
むしろそっちが正しいのかもしれない。
今ここに生きていることを感謝するのなら、誕生日だけじゃなくて毎日感謝するのが本当のような気がする。
「生まれた」ことにフォーカスするなら、「産んだ人」がいちばん偉い。
そして生命の誕生には両方の性が必要なわけで、つまりは両親がいないと成り立たない。
そう思うと、誕生日の主役はやっぱり親なのかもしれない。
ひとりでしんみりと親を思い出している、この時間があるのも、そういう理由なのかもしれない。
ふと思った。
母はわたしにどんな人生を送って欲しいと思っていたんだろう。
窮屈な生き方をしていた彼女は、もっと自由に生きたかったんじゃないだろうか。
そんな気がする。
「もっと自由に」
母が亡くなったとき、わたしは彼女が全てを解放したんだと思った。
それなのにわたしは、あれから何度も過去に引き戻されていた。
本当は、あのとき全て解放されていたのに。
ずっと手放せないでいたのは、わたしだった。
そうやって本当は、ずっと一緒にいたかったのかもしれない。
ただ、恋しかったのかもしれない。
小さい頃から、いついなくなるかわからない人だと思っていた。
目を離した隙に何処かへ行って帰って来ないんじゃないか、置き去りにされるんじゃないかと、いつも不安だった。
その感覚は成長してからもしばらく夢に出てくるくらい残っていた。
そして多分、その気持ちを伝えることなく諦め、大人になってからも消化できないまま、そしてついに本当にいなくなってしまった。
そこから、わたしは止まっていたんだと思う。
諦めたことにしてしまっていた。
「諦めることと手放すことは違う」と、ついこの間カードリーディングの中で自分が言ったんだけど、まさにこの問題がそうじゃないか。
わたしがすべきだったのは諦めることじゃなくて、手放して昇華することだった。
解放することだった。
だって、そもそも諦めることなんてできないのだから。
諦めなくてもよかった。
諦める必要なんてなかった。
ちゃんとその気持ちを認めて、受け止めてあげるべきだった。
今度こそ、手放せる気がする。
笑顔で手を振れる。
ありがとう。