何かを昇華していくということ(「底なし子の大冒険」感想のつづき)

まだあった、思い出したこと。

 

打たれ強い人は、基本何があっても「大丈夫です」と言う。

大丈夫じゃなくても「大丈夫です」と言うし、なんなら心配されて世話を焼かれるのが苦手だし、「ほっといてよ」「触らないでよ」と言う。

頼り方がわからない、優しくされてもどうしたらいいのかわからない、なんなら疑ってしまう。

「そんなわけないだろう」と思う。

 

開いた傷は自分でどうにかするしかなかったし、大丈夫じゃなくても大丈夫なふりをしなくちゃいけなかったし、どうにもできないことで心配されるのも面倒くさかった。

 

でも全然大丈夫じゃない。

 

大丈夫じゃなくてもいいんだ、自分だけでどうにかするために無理しなくてもいいんだ、と思えるようになったのは、だいぶ大人になってからだった。

自分の弱さを認めてもいいんだと思えるようになって、少し楽になった。

 

だから、もし周りにいつでも「大丈夫です」と言う人がいたら、本当は違うかもしれないと思って欲しい。

そしてもし、その人が無理をしていることがわかったら、嫌だと言っても鬱陶しいと言っても帰れと言っても、その手を離さないでいて欲しい。

どんなにその手を振り払われても。

 

本当は「抱きしめて欲しい」と言っているはずだから。

 

 

ふと思ったけど、わたしの場合、母とは最期の前にある意味和解したから、それで救われている部分があるんだろうな。

わたしが母と最後に話したのは電話口で、今思えばあのとき母が確認したがっていたことは実はただの口実で、確認なんかどうでもよかったんだろうな。

めんどくさいから「やったよ」ということにしたら、珍しく「ありがとう」なんて言うから、あれ?と思ったんだけど。

それが母との最後の会話になった。

 

母はただ「ありがとう」が言いたかったんだろうな。

 

わたしにはその言葉があるから、もう母を恨まなくてもいいし、血を抜かなくてもいい。

それは不幸中の幸いというか、むしろとても幸いなことだと思う。

 

何かを昇華できるというのは、とても貴重なことかもしれない。

 

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