誰かにとっての存在

コロナの発生からリアルで会える人が減っていて、本当に数えられるほどの人にしか会っていない。

誰かとランチに行くということも最近になってやっと少し増えたけど、一人暮らしで定職もないわたしが1ヶ月に会う人の数は、両手を使うと余るぐらいだ。

 

東京に出張に行った人の子供に対して、「うちの子にしばらく会わないでください」とかいうことを言われるというTwitterをさっき見てしまった。

相変わらず、東京都は感染源、東京都民は感染者だと思われているらしい。

こうなるともう、自分が生きている世界とは違う現実でもあるんじゃないかと思えてくる。

どれだけ分断を煽れば気が済むんだか。

 

 

しばらく実家で在宅勤務をしていた元同僚が東京に戻って来て、ランチに誘ってくれた。

久しぶりに会ったので、結構長いことお茶しながら話した。

 

年代は少し離れているけど、話の尽きない間柄。

そんな人に出会えることは、本当に貴重でありがたい。

 

お互いに引き合うとは言うけれど、それでも気持ちが「一致する」というのは、ある意味奇跡なんじゃないかと思う。

同性であれなんであれ、「両想い」になるということは、簡単なことじゃない。

しかも、「話をするとスーーっとします」と言って、わたしという存在の価値を見出してくれる。

 

 

彼女からもらったドーナツとオーガニックのコーヒーをいただいていたら、なんだか涙が出るような感動を受けた。

 

それは多分、その中に彼女の気持ちが入っていて、わたしの中に伝わってくるからなんだろうな、と思う。

 

 

そんな、誰かにとっての「何か」であること。

それは小さいけれど強い、希望の光のようなもので、他の何にも代えられない、じわじわとしてくすぐったい感覚で、そのむず痒いような気持ちを、どうにか伝えたくなる。

そういうものを、大事にしていきたいと思う。

 

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