どこに価値を置くのか

もう4月。
講師の仕事をするようになって、桜の季節は忙しさに埋もれてお花を楽しむ気分にならない期間になってしまったけど、それでも電車の中から見える桜の木に、なんだか癒されていた。
今は市街地の通りに植わった八重桜が満開になっていて、あぁ、4月だなぁ、と思う。
そしてヒノキの花粉が飛散し始めたらしく、目がかゆいこの頃。


アロマのコースを受け、次のステップへ進みたくて、資金を得るために始めた派遣の仕事。
当初は週3日の予定だったのが4日になり、「本当はフルで来て欲しい」と先日言われた。
わたしの都合や状況を聞いてくれた上で予定を考えてくれ、時給を上げる交渉に応じる気持ちがあるとさえ言ってくれた。


必要だと思われること。
それはわたしが「存在価値」に敏感だから、それが反映しているのかもしれない。
どこに行っても、必要とされる人材になりたいと思う。


裕福で不自由のない生活を送る人がいる。
わたしがあくせく働いている側で、与えられた環境から利益を享受し、海外旅行に行き、コンサートや演劇に勤しみ、美味しいものを食べている。
講師をしていると、そんな余裕のある生活をしている人の話を聞くことが多い。
「トリュフが好物で、よく行くレストランがあるんだけど、今回食べた中ではキャビアが美味しかった」とか言う中学生の話に付き合いながら、なんだそりゃ、と思う。


だけど。
わたしの選んだ人生は、働き、誰かのために時間を費やし、みんながうまく回ったり何かのヒントを得たり方向性を見つけたりすることに自分の存在意義を見つけようとしている。


わたしが生きる価値とは。


わたしだって豊かになりたいはずなのに、日々やっていることといえば、誰かのサポートばかり。
豊かな人たちのご子息の勉強のサポートをして、わたしよりお給料やボーナスをたくさんもらっているであろう社員さんたちのサポートをして、「必要な存在だ」と言われる。
正直、何をやっているんだろうと思う。
皮肉に思えてならない。
そんな「必要な存在」なら、なんでこんな収入なのか。
なんで海外旅行もコンサートも行かずに、仕事に埋もれているのか。


わたしが生きる価値とは。
それは、誰かにお膳立てされた豊かさに囲まれることではない。
自分で自分の意義を見つけることだ。
だから、時給をいくらか上げてくれるということに、そんな僅かなことに、ありがたさを感じるのだ。
本当にそんなバカみたいなことに、「ちゃんとやっててよかった」とか、思ってしまうのだ。
Small things make difference.ということに、注目してしまうのだ。


目に見える成果が僅かであっても、わたしはそれをやり続けてしまうのだ。


「本当に大事なものは目に見えない」
わたしはそれを、どこか盲目的に信じているのかもしれない。