「底なし子の大冒険」を観た。
久しぶりの演劇鑑賞。
渋谷悠さんの演劇は毎回深くて面白くて素晴らしいということがわかっているので、タイミングが合うかとか時間やお金の余裕があるかとか、そういうものがクリアできれば必ず観たいものの一つなんだけど。
今回もTwitterでシェアされているのを見て、どこかのタイミングで行こうと思ってたら、最後の週末になってた。
慌てて深夜にチケットをオンラインで買うにあたり、どのチケットにするか悩んだ末、支援付きのものにしたんだけど。
ライブの「ノルマ」というものを経験している身としては、こういう公演を継続することがどんなに大変か、少しは理解できる。
いや、仕事に「営業」とか「ノルマ」とかが関わっていることなんて、珍しくないだろう。
現代の資本主義社会に生きている限り、お金とか集客とかから逃れるのは難しい。
わたしができることなんて微力だけど、少しでもプラスアルファの行動ができれば・・
なんて思うわりに、公演に一人で来てしまったことに会場に着いてから気づいた。
あれ、誰か誘えばよかったんじゃ?
いやでも思いついたのが遅かったし、チケット買ったのも夜中だし。
そんなことをうだうだと思ったけど、今更もう遅いか。
そう、一緒に来る人を誘うのに躊躇したのは、それだけじゃなかったのかもしれない。
まず、渋谷さんの演劇で泣かないということはまず有り得ない。
もしかしたら号泣してしまうかもしれない。
しかも、今回のテーマは「虐待」。
もちろん渋谷さんのことだから、傷口をパックリ開いただけで放置して終わり、なんてことは絶対しないだろうし、期待を裏切らないことはわかっている。
だけど、自分さえどんな反応になるかわからないものに、誰かを誘うのには勇気がいる。
いや、というより、そこまで考えられなかった。
だから、自分が観てからその感想を含めてオススメしたかったところなんだけど、気づいたら千秋楽になっていた、という・・・。
なんかいっつもこんな感じだな、わたしって。
これが映画とかなら、デジタル化されて、いつでもどこでも観られるんだろう。
だけど、舞台には舞台にしかない表現力があると思う。
その場の臨場感とか、自分がどこに焦点を当てて観るかとか、声の大きさや聞こえ方とか。
演じているほうとしては、反応が感じられるというのも大きいと思う。
号泣するほうは恥ずかしいけど、笑い声が聞こえるのも、泣いている人を見るのも、その場にいるからこそ、なわけで。
いやそれにしても、演技が本当に素晴らしかった。
どの役の人も本当によかった。
中でも「底なし子」の人が、なんだかものすごくまっすぐな感じの演技で、とても印象に残った。
渋谷さんの作品は、観ているときも観終わった後も、いろんなことを思い出したり思考が広がったりするんだけど。
今回思ったことや思い出したことを書いておこうと思う。
もうだいぶ忘れていたけど、わたしも昔は相手を試すようなところがあった。
特に恋人のような特別な関係になれるかどうかといった場合には、そういう部分が強く出ていたように思う。
いちばん辛かったことを話したときの反応で、「この人は自分を受け止められる人かどうか」というのを見ていた。
「こんな辛いことは経験した人にしかわからない」と思って、そういうことがなさそうな人には理解も共感も求めず、表面的な言葉、ましてや同情なんかいらないと思っていた。
だけど今回、主人公の作品を読んで友達になりたいと言ってきた人とのやり取りを見ながら、あー、そういう人は、たとえ自分自身にそういう辛い経験がなかったとしても、主人公のように何かと戦いながら強く生きようとしている人の、その姿勢に魅力を感じて、友達になりたいとか応援したいとか、思うのかもしれないと思った。
あとはねー。
自分はあの人とは違う、あの人みたいになりたくない、だけどわたしはあの人に似ている、その血を受け継いでる、というやつ。
連鎖する、ってやつ。
これは重いよね。
わたしもこれを長年引き摺っていた。
今も、完全にそこから解放されているわけではない。
連鎖を止めるために自分は結婚すべきじゃない、できるわけがない、子供なんか産めない、なんならいっそ自分の存在なんか消してしまったほうがいい。
若い頃はそう思ってた。
と同時に、母親のことを調べられた挙句に「そんな母親の血を引いた(遺伝子を持った)子供を嫁にはできない」と言われた際、こんなに「わたしはあんな人にはならない」と必死で戦っているわたしに向かって何言ってんだ、とも思った。
だから主人公がやたらと献血に行って血を抜きたくなるというのも、ものすごくわかる。
こんな血、なくなってしまえと思っていた、わたしも。
正直言って、これって「二次加害」だよね、今で言うところの。
でも、酷い言いがかりだと思ったけど、完全に否定なんてできなかった。
だって、あの人みたいになってしまうかもれない、と、いちばん恐れていたのは自分だから。
否定したいけど自信がない。
自分の中に溜まった膿が、どんどんどんどん膨らんで、自分でもどうしようもないくらい、コントロールできないくらいになって爆発してしまうかもしれない。
そんな恐怖と戦っていた。
それでも、必然的に打たれ強くなった底なし子のように、そのパワーで世界を変えられるかもしれない。
一緒に戦ってくれる人が見つかるかもしれない。
もしまたこの演劇が上演されるようなことがあれば、虐待を知らない人にも、知っている人にも、観て欲しいと思う。
どちらにとっても救いのあるものだと思う。
公演のサイト:
https://www.shibu-shibu.com/sokonashiko